■.君が熱を出した

 名前のアパートの呼び鈴を鳴らす。しかし、反応はない。

 今は丁度正午を回った辺り。休日である彼女は家にいるはずなのだが、買い物にでも出かけているのだろうか。しかし此処へ来る前に一言入れた連絡には未だ返信がないまま。眠っているにしては時間が遅い。妙な予感を抱き、俺は急いでキーケースを取り出した。名前から以前“持っていて”と言われ持たされた合鍵は、今まで使う機会など無かったのだが。

「名前……?」

 玄関のドアを開けると、部屋の明かりがついたままだった。嫌な予感がしてならない。急ぎ足で廊下を抜けると布団に包まる彼女の姿が目に入ってくる。

「名前……っ!」

 髪はじんわりと汗ばみ、彼女の額に張り付いている。布団をそっと捲って確認すると、名前は苦しげに瞼を閉じていた。彼女の額に手を添えてみれば、かなりの高熱だと分かる。咄嗟にポケットからハンカチを取り出し汗ばんだ額や首筋を拭いてやるが、他に何ができるだろう。

「ん……あかい、さ?」

 名前は、何故俺がここにいるのか、理解できていないようだった。眉間に皺を寄せながら、苦しげに呼吸をしている。

「大丈夫か、?」
「なん、で……」
「いつからだ?薬は飲んだのか?熱以外に症状は?」
「うっ……」

 畳み掛けるような質問に、名前は頭を抱える素振りを見せ苦笑いをする。その様子には少しだけ安心できた。どうやら、熱以外に症状はなく何か緊急を要する状態ではないようだ。

「へーき、ただの……風邪、」
「だが、辛いだろう名前」

 初めて見る彼女の弱り切った姿に、心が痛くなった。少しでも楽になればと彼女の前髪を梳くように何度も撫でつけていると、名前はことの成り行きを話し出してくれる。昨晩から悪寒があったと聞いて、何故言ってくれなかったんだと喉まで出かかったが、ぐっと飲み込んだ。

「とにかく解熱剤だ。すぐに飲んでおこう。どこにある?」
「風邪薬しかない、きがする」

 倦怠感に苦しむように身体を捩る彼女は、話すのも辛そうだ。俺が此処へ来なければ、熱が出たことも隠し続けるつもりだったのだろうか。心配かけまいと、連絡を寄こさなかった理由は優しさ故だろうが、君が苦しんでいる時に側にいてやれないのはどれほど悲しいことか。一言、口にさえすれば、仕事など全てを放り投げて駆け付けるというのに。

「買ってくるよ。何か他にいるものはあるか?何が食べたい?」

 唸り声を上げている名前の髪を撫でながら、伺いを立てる。必要とあれば、何でも揃えてみせよう。君のためになれるのなら、何だってするんだ。

「んっ……ぜりー?」

 悩んだ末に絞り出された答えは、とても曖昧だった。俺に聞くな、と言いたいところだが、その返事には軽く笑って頭を撫でてやる。

「分かった。すぐに戻るよ」

 それだけ伝え薬局へ行き、薬と、彼女の要望であるゼリー、他にも必要そうなものを買った。助手席に投げ置くようにして車を走らせながら、足は無意識に小刻みに動いていた。普段は何も感じない赤信号が、今日は長く感じるようだった。

「名前、戻ったよ。すぐに薬を……」

 薬を飲めば一先ずは安心だろうと思って部屋を開ければ、彼女がベッド脇の床に倒れ込んでいる。

「っ……名前、っ!」

 ベッドから落ちて頭でも打っていたらと慌てて駆け付けてみれば、彼女は薄目を開けたまま力なく笑った。

「おい、どうし……っ」
「だって……ゆか、気持ちよくて」

 その呑気な声に、全身の力が一気に抜けていった。どうやら自分で、ベッドから這い出てきたらしい。頼むから驚かせないでくれ。こっちは血の気が引く思いだったんだぞと、これもまたぐっと堪えながら名前の頭を撫でていた。

「汗が、すごいな……」
「ん……あかい、さん」
「ああ、辛いんだな名前」

 かわいそうにと、その辛さを代わってやれないことが苦しい。何度も頭を撫でてやりながら、名前の身体を起し辛くないようにベッドに凭れさせた。

「薬を飲む前に何か食べられそうか?ゼリーと、他にもいろいろ買ってきたんだが……」

 そう言って、買ってきた物を見せようと袋に手を伸ばせば、違う、と言いたげな可愛らしい唸った声が聞こえてくる。

「ん?どうした?」
「……んっ」

 すりすりと、そんな表現がまさに合うように、彼女は額を肩に寄せてきた。相当、弱り切っているのだろう。悲し気に声を出しながら、擦り寄ってくる名前がなんとも愛おしい。

 いいさ、好きなだけ甘えてくれと、数回頭を撫でてやる。前髪を横に流してやりながら、何度も撫でつけていると名前はゆっくりと微笑んだ。

「ん、きもちい……もっと」

 自分の体温よりも低いこの手が、冷たくて気持が良いのだろう。子犬が頭を撫でられたくて主人の手に擦り寄るように、名前も俺の手から離れまいと顔を動かす。甘ったるく熱の篭った声で求めるように動く姿に、思わず笑みが零れた。

「名前、どうだろう。ゼリーは食べられそうか?」
「ん……やっぱり、むりかも」
「なら薬だけでも飲んでおこう。少し経てば、熱も下がるはずだ」

 まだ甘えていたいのか彼女は少し不服そうだったが、薬を口元へ持っていってやれば大人しく開けてくれた。可愛らしいその口へ錠剤を差し入れてやると、ペットボトルの水もごくごくと飲んでもらえる。

「OK, My sweetheart. いい子だ」

 そう言ってこめかみにキスを落とせば、名前は力なく笑った。それも無理をしているのだろう。明らかに辛そうだ。

「眠るべきだろうが、その前に一度着替えるか?このままでは逆に冷えてしまいそうだ」

 じっとりと汗に濡れた首筋を見て、さすがにそう尋ねれば名前は素直に首を縦に振った。

 彼女の言葉を頼りにパジャマの一式を取り出し、脱がせてやろうと服に手を掛ければ、彼女はそれを頑なに拒む。こんな時くらい甘えればいいもの、恥じらいの方が勝るのだろう。ならばと、視線を逸らして待っていてやるが、震える手では上手くボタンを外せそうになかった。

「やろう」

 そう言って代わりにボタンに手を掛けると、今度は素直に受け入れてくれる。しかし相変わらず胸元は抑えられているため、そんなに警戒してくれるなと心の中で呟いた。その状態の君に何かするはずなどないというのに。

「ん、外れたよ」

 そうして名前に背を向けるようにして待っていると、着替え終わった彼女が背中に擦り寄ってきた。もう、限界なのだろう。瞳が潤んで、今にも泣き出しそうな目をしていた。

「さあ、ベッドへ行こう」

 解熱剤が効くまでにはまだ時間が掛かるだろう。それまでの辛抱だよと、エールを送る様に名前の額へ口付ける。するとベッドに入った彼女は、重い体を動かしながらこちらに腕を伸ばしてきた。

「ねえ……あかい、さん」
「ん?」
「……撫で、て?」

 俺の手を弱弱しく握ると、彼女は自分の頭の方へと持っていく。なんとも可愛らしいその行動に、どこまでも甘やかしてやりたくなった。

「ずっと、ここにいる。ここにいるよ」

 彼女を安心させるように微笑んでやると、名前は嬉しそうに目を細めた。どうか、少しでも早く回復しますように。彼女の頭を優しく撫でながらその手に想いを込めていく。名前はやがて、穏やかな寝息を立てて眠りについていった。